1.はじめに

 最初にお断りしておきます.ある程度砕けた文体・内容になることをお許しください.また,常用語と敬語が混ざっているので読みにくいかもしれません.

 『つれづれなるまゝに,日くらし,硯にむかひて,心に移りゆくよしなし事を,そこはかとなく書きつくれば,あやしうこそものぐるほしけれ.』

 何故にこの後に続く駄文を書いたのかと問われると,「この徒然草の一節が今の気持ちです」と応じるしかありません.今までの特別企画のコンテンツは「みずこう」やその他の映像・画像を引用してきたに過ぎません.また,一応学生という職業をやっている身としては,普段あまりHPに時間を割いてばかりいるわけにもいきません.

 ただ,今回は冬季休業によってある程度の時間の余裕ができたので,大学でなんとなく聞いた話の一部を,水高バージョンにしてみたいと思ったわけです.

 引用に関しては詳細な情報(今回の場合は講義名や教授名)を書き記す必要がありますが,今回はプライバシー云々の関係もあるので御容赦願いたいと思います.

2.ある講義のメモより

 戦前のアメリカ型教育を捨てた戦後日本の教育制度はどうなっていったのか?「日本人になる」ための教育は欠落し,国民のために自己の利益を犠牲にしても何かをなしとげる精神(ノーブリス・オブリージュ)を培うエリート教育も欠落している.

 単線型で一つの序列が形成されていった.しかも,学歴重視の社会が現出することで,受験の勝者が将来社会において上位の階層につくことが決まってしまうような社会になった.

 つまり,「将来,どのような才能を発揮しようとも,学歴という身分がなければ,その人は日本社会では浮かび上がれない」そう考える人が多数を占め,そのような思い込みが社会を動かすことになってしまった社会になっていった.しかも,受験において「正解」とされるものが決められていくに及んで,受験秀才には柔軟な思考力が欠落していくシステムになっていった.状況のはげしい変化に柔軟に対応する能力あるエリートが育ちにくくなっていった.

 それにも関わらず,真剣にこのような教育の弊害を議論しようとする人が少ない.

 おそらく小室の頭にもあるものと思うが,プラトンが「哲人政治」について述べ,ポリスにおける統治階級と防衛階級,生産階級にそれぞれ異なる〈徳(アレテー)〉を想定したように,この社会を構成する様々な人々が,効率的な分業を行うには,同じ内容の教育を受ける必要はない.同じ「日本人」としてお互いを裏切らず,協力しあえることさえ確保すれば(実のところ共通する価値というものの具体的な確定は極めて困難な作業になるであろう),それぞれが異なる人生の目標やよい人生,よい生き方と認定する基準などが違っていてよいのだと思う.

 より具体的に説明してみる.ある高校中退者が,街で見かけた20代後半の大工が手鼻をかんでいる様子を見て,それを「格好いい」とあこがれた.次に見かけたときに弟子入りを志願した.

 私の教えているある生徒が,答案に,「若者の行儀が悪くなっているという討論をさせられた(正確にはそんなテーマは設定していない)が,そんなもの,昔の若者だって行儀悪かった.一緒や.」と書いていた.実は,大きく異なる.たとえば,高等学校−大学と進む階層では許されない行動とそうではない階層で認められる行動に差があった.むろん,高等学校の寮内でわざとバンカラな行動をとるということはあったが,ある意味で,それは非日常の祭りにおける行為であった.

 職人さんには職人さんの誇りや美意識があり,商人には商人の誇りや遵守すべき規範がある.農民には農民の,漁民には漁民の荒っぽくとも守るべき誇りや美意識がある.理想どおり,お互いに尊重し合いとはいかなかったであろうけれど,各職業層ごとの規範があったのだと理解できる.それぞれがそれぞれの集団規範を意識し,守っていた.無規範の,無茶苦茶なケジメのない行動をとっていたわけではない.

 現在の身勝手な無規範の行動とは意味が異なる.また,一律に同じルールに従わせ,同一の美意識を抱かせようとすることには無理がある.おそらく人間にはそれは耐えられないのではないだろうか.

 ここのところの差異が理解できない人が増えたため,話がもつれてきているのだ.

 おそらく,学力低下の議論も事の本質がわかっていない人(馬鹿と言いたいが我慢する)によって論じられている.木を見て森を見ずということなのだと思われる.

 共通して誰もが習得しなければならないものとして,分数の計算能力などあげる必要はない.しかし,大学において経済学や工学を学ぶものには必要不可欠の能力である.しかし,それを大学から教え始めてどれほどの不都合があるのかも明確にしておくべきであろう.本当に必要不可欠ならば再学習の機会を与えれば済むことである.あるいは,自分で再学習する必要性を合理的に実感させれば済むことである.もっと言えば,能力の欠如なのか,単に手順を咄嗟に思い出せなかっただけなのかも不分明な分析であった.さらに言えば,本当に日本社会にとって経済学修得者の数がどれだけ必要なのだろう?そりゃあ経済学部教授にとって,自学部の勢力拡張には重要な関心事であろうが,日本社会全体にとってたいした問題とは考えられない.この辺りは,私の判断が誤っているかもしれないので,どなたか誤りをご指摘下さればありがたい.

 現時点で,簡単に複線型教育バンザイ!という気にはなれないが,かなりしっかりと考えるべき諸点を含んでいるものと考えている.

 とりあえず,私の関心は,エリート養成の教育に集中しており,価値の押しつけではなく,彼らの内に「高貴なる者の義務」などという感覚が身に付くにはどうするべきかを模索している.私は,あくまでも事実と理念の正確な理解を通すしかないと考えているのだが.

3.管理者雑感

 自分の母校に愛着・誇りを持ってはいるものの,客観的に偏差値・有名大学への進学という観点で水高を全国的視点(マクロ的視点)で見たら進学校と呼べるのか?答えはNOである.進学者「数」はそれなり(近年は100を切りそうな勢いで落ち込んでいるそうだが)のものを確保しているが,東大10人と岩大10人の差は誰が見ても明らかだと思う.そんなマクロ的視点においては一地方中堅進学校に過ぎない水高でしか学べない,他の進学校に誇れる(誇れていた)ものとは何か?

 その答えをこのメモに見いだした.『ノーブリス・オブリージュ』である.ノーブリス・オブリージュとは本来,高位者・貴人が果たすべき当然の社会的責任という意味のラテン語(?)であったと思う.別に,水高生が高位者・貴人・エリートであるというわけではない.ただ,ミクロ的視点での地域のトップ進学校として果たすべき(将来果たすであろう)責任はそれなりに存在するであろう.岩手県内の学区制も要因ではあるが,県内各地区のトップ進学校には少なからずこのようなことが言えると思う.

 現在,自分は首都圏に在住しているが,首都圏の水高程度の偏差値の高校で,ノーブリス・オブリージュを学べるような特色ある高校は存在しない.こちらのトップ進学校(全国的に見てもトップであろう)でも,そのようなことを学べる高校は少ないと思う.

 では,ノーブリス・オブリージュはどのようにして各個人の内面に形成されていくのだろうか?学校生活全てと言えば単純ではあるが,伝統・気質・行事・普段の生活などが絡み合って形成の場をさらに形成していくのであろう.伝統に関して,第三応援歌にもあるように,他の旧制中学に比して浅いものであることは明らかである.しかし,母体の旧制女学校が程度の社会的地位を築いていたことにより,新制高校になってからもそれなりの層の生徒が入学したことは想像に難くなく,その生徒達が旧制中学を母体とする新制高校に対して対抗意識を持ち独特の伝統を形成していったのであろう.また,そのような環境から水高の根本的な気質も生まれていったに違いない.

 そして,ノーブリス・オブリージュ形成における最大のturning pointは応援歌練習や応援活動にあると思う.これは,自分がリーダーOBであるからこのように言っているのではない.応援歌練習の厳しさや是非は別問題として,挨拶の励行や上下関係の厳格化(近年薄れているが)など,大人としての責任・常識を教えるのに少なからず役立っていることは事実である.人生経験の浅い自分が言うのも僭越だが,人生の多感な時期に自分の意見・意志とは相反する,何らかの事を無条件で成し遂げるという経験が必要だと思う.この経験はモラトリアム的職業である高校生という身分から離れたときに必ず役立つはず.「そんなのは理不尽じゃないか」という人もいるだろうが,この程度のことを耐えられない人間が社会において責任ある人間にはなれないと思う.

 本心を言えば,この伝統を引き継いで欲しかった.多くのOBもそれを願っていたと思う.改善されつつも根本的な部分が残っていくことを.12月18日に現役生が掲示板に書き込み(何故か本人が消してしまった様だが)をしてくれたが,彼(彼女?)は「根本的な部分は伝わっていると」書き残していた.それが事実であることを信じたい.ただ,現在では部外者である私の知る限りではそれが事実であるとは思えない.敢えて現役(48代以降)に辛いことを書き続けているが,それが悪意によるものでないことだけは信じて欲しい.それに賛同するも良し,反骨精神を見せて攻撃してくるも良し.無気力・無関心・非活動的な状態に陥ることさえなければ.

4.後記

 勢いに任せて書いてしまったので,文体・文法・誤字・脱字など滅茶苦茶な文章になってしまい申し訳ないと思っています.ただ,支離滅裂な文章ではありますが,それなりに内容はある…はずです.読者がどのように捉えるかは知る由もありませんが,賛成であれ反対であれ,何かの契機になって貰えれば書き手冥利に尽きます.